第432号 物流は単に物流に非ず:「エジプトはナイルの賜物」を見聞して(2020年3月17日発行)
執筆者 | 野口 英雄 (ロジスティクスサポート・エルエスオフィス 代表) |
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目次
1.あの巨石文明はナイル川水運がもたらした
今から凡そ5千年前頃より始まった世界四大文明の一つ、エジプトの巨大遺跡は一体どのようにして建造されたのか。そのことが旅の間中、いつも頭から離れなかった。一辺が200m余り・高さが140m超にも達するピラミッド、40mも聳え立つオベリスク(尖塔)、神殿の高さは20mにも及ぶ。これらの素材は比較的柔らかな砂岩もあるが、硬い大理石・花崗岩も使われている。砂岩は砂漠の中のどこにでもあるが、硬い石は産地が限定される。それはカイロから南へ1千Km以上も離れた場所でしか採れず、全てナイル川の水運により各建設地へと運ばれた。
中部ルクソールにある王家の谷と呼ばれる墳墓群では、60余りの地下式のものが発掘され、見事なレリーフが極彩色で描かれており、その年代の経過を感じさせない。この乾燥状態だからこそ、画質は維持されてきたのだろう。これらの造形や描画彩色の素晴らしさもさることながら、これをどう制作し据え付けたものか。原材料が採石場で加工されたものか、建造の現場で行われたのかも分からない。南部アスワンには石切り場があり、40m以上にも及ぶオベリスクが採石途中で放棄されたままになっていて、総重量は1千tを超えるとされている。作業の過程でヒビ割れが起こり、使えなくなってしまったのだと言う。
いずれにしても石材をどう切り出し、運んだのか。それはまず川畔への横持ちが必要になり、ナイル川に巨大な木の筏を組んで下流の現地へと運んだ。そこでもまた横持ちが必要になり、そして組み立てる。筏に使う硬くきめ細かい木材はエジプトでは産出せず、全てレバノン杉だと言う。レバノンとエジプトは地中海を挟んで目と鼻の先であり、両国は交易で結び付いていたのだろう。輸送の結節点では巨大なコロと、膨大な人馬を要したはずで、一定以上の人口が必要条件だったはずだ。
2.先進文明発展の経緯
アフリカ中央部のビクトリア湖に源を発する、ナイル川がもたらした豊かな緑によりまず食糧が生産され、人口が爆発的に増大した。そしてあの見事な造形や描画彩色のDNAが培われ、伝承されていった。労働力が確保され巨大建造物が造られると、それが周囲の国々を圧倒し、ますます国力が強化されていく。「エジプトはナイルの賜物」というギリシャ期以来の言葉があるが、それは何も食糧生産だけではない。先進エジプト文明を育んだもう一つの要素はこのナイル川がもたらした水運、つまり物流の力であった。
エジプトのこれら巨大遺跡群を見ると、全てナイル川沿いに集中している。もちろん川幅は今よりずっと広く、横持ち距離は短かったはずだ。大理石・花崗岩はエジプト最南端のアスワン付近でしか採れず、これで遺跡への搬出運搬可能な立地も限られてくる。内陸部にオアシスはあるが、物流面を考えれば立地としては適さなかったと言える。もう一つ、この時代に立派な木造船が建造されていた。それはレバノン杉を使い、全て麻縄で固定されている。帆を張るために、滑車というものは既にあったのだろうか。板材を加工するにも膨大な時間が掛かったはずだ。いずれにしても金属がない時代に、造船・航海術が既に確立されていた。
現代では巨大なアスワンハイダムが建設されている。国内電力需要量の約10%を賄っているが、灌漑用水としての利用はこれからだろう。エジプトの国土利用率は6%程度に留まっていると言われ、更なる水力発電・食糧増産等、そして砂漠化防止に繋げられれば一石三鳥ということになる。これを意図してアフガンで殉職された中村医師の講演会には、エジプト人技師の姿も見られたと言う。その偉大な業績にも思いを寄せずにはいられない。
3.物流技術が文明をもたらした
硬い大理石や花崗岩をどう切り出したかについてはまず岩に細い溝を刻み、そこに木片を押し込んで水をかけ、その膨張により切断したと考えられている。もちろんそれには長い繰り返しと、膨大な時間が掛かったはずだ。そしてこの原石を加工するには、それより硬い石が使われた。ダイヤモンドに次ぐ硬さと言われ、これでコツコツと石材を刻み、あのような神像等を削り出していった。もしかすると運搬途上の筏の上で、このような加工が行われたかも知れない。ナイルの流れはあくまでも緩く、水深は5~6m程度であった。
これらを制作現場で組み合わせ、20m余りの高さまで積み上げる技術も大変なものである。当然大掛かりな養生が必要になり、少しずつ積み上げていく。オベリスクに至っては40mもあり、これをどう垂直に固定したものか。これらの遺跡には彩色されたものもある。レリーフとは石材に漆喰を塗った上に描画彩色を施したものだが、これにも大変な技術を要したことだろう。別にレリーフを作り、後に埋め込んだものではないはずだ。特に天井部分にこれを描くのは、至難の業と言える。
ルクソール神殿の2本のオベリスクのうち1本が、最終王国の頃にフランスから贈られた巨大なシャンデリアの返礼として、今ではコンコルド広場に建てられている。これをどう引き抜き、ナイル川~地中海~ジブラルタル海峡~大西洋~パリへと運ばれたかという史実も面白い。運んだのは古代同様の筏であろうが、これを広場に建てたのは既に近代建築の粋を集めたということだろう。もちろん古代においては、これは極めて難しい技術であったはずだ。メキシコのピラミッド・マチュピチュ遺跡・イースター島の巨代モアイ像等も同様である。
4.物流は要素を繋ぐ技術
様々な要素技術がまずあって、物流はそれを適切に繋ぐ複合化技術であった。まず石材を切り出し、一次加工して筏まで横持ちする。そして1千Km以上を移動させ、その上で必要な加工が行われたかも知れない。そして現地に到着すると再び横持ちが行われ、それを建設場所まで移動させる。その途中で石材が破損してしまうということもあったのではないか。筏による輸送はそれを防止する上でも、誠に最適な輸送手段であった。しかし砂漠地帯では寒暖の差が激しく、この時期は夜間早朝で10℃を下回り、とても寒かった。もちろんホテルには冷房機能だけで、暖房はできない。
建設の現場では砂漠という柔らかい地盤の上に巨大な建造物を建てるため、入念な基礎の版築が行われたはずだ。そして水平を保ち、高層に積み上げていく。エジプトでは紀元前に地震があり、ピラミッドの一部が崩壊した形跡はあるようだが、多くが建造当時の原形を保っている。王家の谷の葬祭殿は、まるで近代建築と見紛うばかりであった。紀元後に地震は発生せず、今日に至るまでその見事な美しさを見せている。石材を繋ぎ合わせる精度は、表面仕上げも極めて丁寧に行われた結果であろう。
もちろん天体観測を行い、方位を測定する技術も既に確立していた。建造物が見事に直線化され、水平を保つ技術も素晴らしい。アブシンベル神殿で国王の誕生日に合わせ、年2回朝日に映し出される神像も拝観したが、このような緻密な計算と設計が行われていた。この神殿はアスワンハイダムの建設に伴い60m程高い場所に移設されたが、その結果1日ズレてしまったという。これは光の奇跡と呼ばれ、短時間で終わってしまうのでその見学も時間が限られる。
5.物流からロジスティクスへ
種々の要素技術を繋ぎ合わせ、一つのトータルシステムとして完成させるという物流技術が、当然活用されていたことは間違いない。原料産出地と建設地をナイル川の水運で結び、巨石を加工し建造していったのもそれらの技術が支えていた。それは単に運搬し輸送するだけではなく、まさに各要素技術を繋いだ全体システムとしての成果であろう。これが既に5千年前から進化していたのは大きな驚きである。物流の基本要素は輸送・荷役・保管・流通加工・情報処理の5つとされているが、この旅で改めてそれを思い起こさせられたのは誠に不思議な体験であった。
そしてそれは単にモノを移動させるだけではなく、基本となる労働力の確保や、技術力としてのDNA伝承、その結果として国力の誇示等へ繋げていったのは、現代で言えば将にロジスティクスへの過程であると見ることもできるだろう。ロジスティクスの要諦は計画と統制であり、当然短いレンジでこれらの遺跡群が完成していったわけではない。それには何十~何百年という計画が営々と重ねられていったはずだ。ロジスティクスでは更に在庫管理と情報システムが加わり、そのコアは需給管理とされている。パピルスを原料とした紙とヒエログリフと呼ばれる文字の発明もそれを支えたのではないか。
現在のエジプトは観光立国だが、もしかしたらロジスティクスの先進国であり、その可能性は未だ残されているかも知れない。その一つのカギは例えば前述したアスワンハイダムの活用であり、ロジスティクスへの展開としてアフガンの中村医師の意図にも繋がる。この時期エジプトは砂嵐が酷く、まさに砂まみれの旅であった。これは健康被害も大きいはずで、温暖化・砂漠化防止に少しでも結び付けばと思う。
以上
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