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第353号 いまふたたび鉄道貨物(2016年12月8日発行)

執筆者  山田 健
(山田経営コンサルティング事務所代表 流通経済大学非常勤講師)

 執筆者略歴 ▼
  • 主な経歴
      1979年日本通運株式会社入社。1997年より日通総合研究所で、メーカー、卸の物流効率化、コスト削減などのコンサルティングと、国土交通省や物流事業者、荷主向けの研修・セミナーに携わる。2014年6月山田経営コンサルティング事務所を設立。
      著書に「すらすら物流管理(中央経済社)」「物流コスト削減の実務(中央経済社)」「物流戦略策定のシナリオ(かんき出版)」などがある。中小企業診断士。

 

目次

1.北海道新幹線が開業

  3月26日、北海道新幹線の新青森駅-新函館北斗駅間が開業した。2031年には札幌まで延長される。
  JR西日本によると、昨年3月に金沢まで延伸された北陸新幹線利用者は、半年で約482万となり前年同期に在来線特急に乗車した人の3倍となった。シルバーウィーク中の9月18日から23日は、約24万人の利用があり、前年同期の4倍以上を記録。
  石川県内の観光地も人出が急増した。石川県や金沢市などのまとめでは、金沢市にある日本3名園の兼六園の入場者は、3~8月で167万人。前年の同じ時期に比べ、4割増えた。江戸時代の町家を復元したひがし茶屋休憩館では13万人と、9割近く増加。連休や週末は市内の量販店、小売店に観光客が殺到、地元の人が買い物しづらいほどの混雑を示しているそうである。
(以上、SBクリエイティブ社「ビジネス+IT」http://www.sbbit.jp/article/cont1/30238より引用)。

2.4時間を切れないのは?

  華々しい新幹線開業とともに話題にのぼるのが「4時間の壁」だ。旅客が飛行機を選ぶか、新幹線を選ぶかの乗車時間の分かれ目が4時間だからである。北海道新幹線は東京から新函館北斗駅間の所要時間が4時間2分で、わずかにオーバーしてしまった。東京~函館の航空便が約1時間20分、空港から函館駅までバスで20分。これに自宅や勤務先から羽田までのアプローチ、空港での待ち時間などを加えればたぶん4時間弱にはなるから、たしかに4時間というのは絶妙な分かれ目になるのであろう。車窓の風景を楽しみながらのんびり旅をしたいという観光客はともかく、ビジネス客にとってはこの違いは小さくないのかもしれない。
  ところで、この4時間の壁をどうしても切ることができなかった理由として挙げられるのが、「鉄道貨物」の問題である。
  北海道新幹線が津軽海峡を超える際に通る青函トンネルは在来線との共用区間である。在来線と同じ線路を走るわけだが、新幹線と在来線の線路の幅は違う(新幹線の方が広い)ので、在来線のレールの外側にもう一つ新幹線用のレールを加えた「三線軌条」により共用を行う。問題はこの路線に貨物列車も走るという点である。
  トンネル内を時速260kmで走る新幹線が貨物列車とすれ違う時、風圧で貨物列車のコンテナを破損したり、コンテナを吹き飛ばして大事故を起こしたりする危険性がある。これを避けるには、
①もう1本トンネルを掘る
②上下線の間に隔壁を設ける
③すれ違う時間帯に貨物列車を止める
④新幹線を140kmに減速する
しか方法はない。

  ①は論外、②も追加で1,600億円の建設費がかかる。そこで③の「旅客が大切だ。貨物列車を止めればいい」という声が聞こえてきそうである。
  でもそんなことをしたらとんでもないことになる。現在、青函トンネルを通過する貨物列車は上下線で1日51本、貨物量は年間で約450万トン。本州~北海道間の輸送における貨物列車のシェアは42%に及ぶ。北海道からは乳製品、かぼちゃ、馬鈴薯、たまねぎなどの酪農品、農産品が、本州からは宅配貨物、飲料、加工食品、衣類などが運ばれている。列車がなければフェリーか内航船で運ぶしかない。一日たりとも止めることができない「大動脈」なのである。
  そこで北海道新幹線はもっとも現実的な「④140kmに減速して通行」を選択した。その結果、4時間の壁を切ることができなくなってしまったのである。航空機との旅客争奪競争に偏することなく、貨物の大動脈を守ったことは大いに評価されるべき判断といえるのではないだろうか。

3.八甲田丸と摩周丸

  北海道新幹線が華々しく開業する少し前、仕事で函館と青森を訪れる機会があった。新幹線開業前とあって、二つの街はまだ訪れる観光客も少なくひっそりとしていた。
  函館港と青森港に自然と足が向いてしまったのは、曲がりなりにも長年物流に関わってきた習性であろうか。でも「自然に」というのは正確ではない。なにせ、JRの函館駅も青森駅も、駅を降りればそこは港の一部なのだから。
  これは、両港が青函連絡船の発着場になっていたことに由来する。青森駅を降りると、名曲「津軽海峡冬景色」にある
「上野発の夜行列車降りたときから、青森駅は雪の中・・・私も一人連絡船に乗り・・・(作詞 阿久悠)」
  の歌詞通りの光景が目の前に広がる。ホームから連絡船の乗り場は至近の距離である。
  訪れる人も少ないその港の一角に、いまはメモリアルシップとなった青函連絡船「八甲田丸(青森)」と「摩周丸(函館)」が、役目を終えた船体を静かに横たえている。

4.海を渡った貨物列車

  よく知られているように、1954年(昭和29年)に列島を襲った「洞爺丸台風」により青函連絡船「洞爺丸」が座礁・転覆し、1,139名という大きな犠牲を出した。これをきっかけとして、1987年(昭和62年)に青函トンネルが開通し、青函連絡船は廃止された。
  青森駅から目と鼻の先の「メモリアルシップ八甲田丸」に向かう観光客は、船の手前の柵越しに海に向かって伸びる錆びた線路を目にするであろう。青函連絡船に貨物列車を「乗船」させるための引き込み線である。
  青函連絡船には貨物列車がそのまま乗り込んで海を渡ることができたのである。「車両航送船」といわれるこの仕組みが開発されたのは1924年(大正13年)。船内には4本の線路が敷かれ、ワム型といわれる15トン積みの貨車を1列車43両、コンテナ列車のコキ車なら19両積載することができた。貨物駅から貨物列車がそのまま船内に乗り込み、海を渡ることができる究極の「海陸一貫輸送システム」である。

  ところで、一口に「車両航送」と言っても、簡単なことではない。貨車を船に積み込むには、陸上のレールと船の甲板に敷かれた線路を接続しなければならない。船の運航に支障のないよう、船の到着に合わせていち早く線路を接続し、貨車の積み換えが終わったら速やかに線路を切り離すことが求められる。停泊している船は波で前後左右に、潮の満ち引きで上下に動くので、本線と船の線路との間には揺れを調整する緩衝レールも必要だ。
  航送中に津軽海峡の荒波の揺れによって貨車が転倒するのを防ぐためには、船に固定用の装置が必要だし、車両の連結器にも工夫が求められる。青函連絡船にはこうした課題を克服するための高度な技術がふんだんに取り入れられている。
  北海道と本州をつなぐ物流の大動脈を確保するために、1世紀近く前にこれだけの物流システムを築き上げた当時の国鉄の情熱と技術力には驚くばかりである。

5.赤ちょうちんと貨物列車

「あのころふたりのアパートは
裸電球まぶしくて
貨物列車が通ると揺れた
ふたりに似合いの部屋でした」
(作詞 喜多条忠 作曲 南こうせつ)
  20代、30代にはもうほとんど知られていないかもしれないが、フォーク世代といわれる年代の方ならピンとくることであろう。1974年に発表されたフォークグループ「南こうせつとかぐや姫」の名曲「赤ちょうちん」の一節である。
  この印象深い歌詞は、貨物列車がまだ身近な存在であったことを伝えてくれる。この頃、踏切で延々と続く貨物列車をイライラしながら待った経験を持つ方も少なくないであろう。
  「赤ちょうちん」は大ヒット曲「神田川」に続いて発表されたと記憶している。「神田川」はタイトルの通り、神田川に面した三畳一間の下宿での話だったから、「赤ちょうちん」も同じような舞台設定だったのではと想像される。少々こじつけになるが、そうすると、裸電球がまぶしい二人の部屋を「揺らした」のは、山手線を走っていた貨物列車だった可能性が高い。
  今は見ることもなくなったこの山手線を走る貨物列車。この消えてしまった貨物列車と昨今のドライバー不足は無縁ではない。

6.かつては鉄道が主役

  現在、国内輸送機関に占める割合は、トンキロ(輸送トン数×輸送距離km)でわずか5%にすぎない。
  ところが昭和30年(1955年)の統計によれば、当時国鉄が担っていた鉄道輸送はトンキロで52.6%、トラックは11.7%である。

  当時の国内輸送ではまさしく鉄道が「主役」だったのだ。
  80年代初めまで池袋、渋谷、新宿、秋葉原、飯田橋といった山手線をはじめ、都内の主要駅には必ず「貨物駅」が併設されていた。
  この頃の鉄道貨物は、旅客とは別に敷設された貨物専用線路の上を、主に「貨車(ワム:前出)」で運ばれていた。貨物専用線路を走る貨車1両にはおよそ15トン積載できるので、それだけで大型トラック1台分(規制緩和車両)の輸送力があったわけである。
  しかも、ビールや紙など大量のロットで長距離輸送される製品は、通称「ビール列車」「紙列車」という専用列車を仕立てていた。専用列車は、本線からの引き込み線によって工場内倉庫の軒先まで入構し、直接製品を積み込むことができた。今にして思えば、トラックによる横持ちゼロの実に効率的でエコな輸送である。
  いうまでもなく鉄道による輸送の利点は、長距離で大量輸送が可能となり、列車の運転手を除けばドライバーも不要となることだが、問題となるのは列車編成作業であった。全盛期の国鉄貨物は、貨物列車を操車場で組替えながら貨車を継送し、各駅で貨車を切り離す「ヤード輸送方式」が主流であった。
  この方式では、膨大な操車場が必要となるうえ、列車の組み換え、切り離しなどに時間がかかり、貨物到着までのリードタイムが長く、しかも不確定というのが欠点であった。しかも、連結作業をする際の衝撃によって、積載貨物が破損するなど、荷主からの信頼度はあまり高くなかった。筆者の拙い経験では、ビール列車が青森の操車場で連結作業に失敗し、当時はガラスビンであった3両分のビール45トンが破損、ヤード内に流れ出してしまうという事故もあった。
  一方で国鉄は、旅客とは別に貨物専用の線路を保有している。これは貨物列車の輸送力確保という点で特筆すべきことである。

7.すべては「58X」から始まった

  この不便な鉄道貨物が次第に衰退した末に、大変革の日を迎えることになるのはある意味、やむを得ない時代の流れだったといえる。
  きっかけは、国鉄の「58X(ごーぱーえっくす)」である。58Xをご存知の方ももう多くないだろう。ましてリアルタイムで経験された方は少ないと思う。
  58Xとは、昭和58年(正確には昭和59年2月)に行われた貨物駅の大幅な縮小と、ダイヤ改正のことである。ヤード輸送方式の限界にくわえ、すでに鉄道貨物は年数千億円ともいわれる膨大な赤字を計上していた。
  昭和59年2月に行われた抜本的改正により、ヤード輸送方式は全廃されることになった。これにともない、150近くあった操車場の大半も廃止された。さらに、全国に851駅配置されていた貨物駅も457駅へと削減された。
  一方、ヤード輸送方式に替わる仕組みとして、操車場での組み換えを必要としない「コンテナ輸送」による駅間直行方式が鉄道貨物の主流となっていく。直行列車によってリードタイムは短縮され、貨車の連結・編成作業が必要ないコンテナによって輸送品質も向上する。
  これだけをみれば、大変有効な改革といえるが、問題はこの後の分割民営化の過程で、JR貨物が分離され、貨物専用線路も原則として廃止されたことである。専用線路廃止により、JR貨物は旅客用の線路を借りて列車を走らさなければならなくなったのである。この条件では必然的に、旅客列車優先になる。貨物列車は旅客列車の走らない夜間を中心に運行するので、輸送能力は激減した。
  58Xをきっかけに、鉄道貨物は衰退の途をたどり始め、トラックがトン数ベースで9割、トンキロベースで5割を占める現在の国内輸送体系ができあがる。もちろん、当時は現在のような深刻なドライバー不足を予測する人はいなかった。むしろ、筆者も含め大半の関係者は、鉄道貨物の利便性向上とともにトラックへのシフトが加速することに大きな期待を抱いていたのが実態である。

8.鉄道貨物の復活は夢か

  深刻化するトラックドライバー不足の問題の決定打はあるのだろうか。
  筆者は抜本的には2つあると考えている。トラックの自動運転と鉄道貨物輸送の復活である。ただどちらも実現には数十年単位での時間が必要であろう。
  トラックの自動運転は、現在国交省が、先行するトラックに自動追随する隊列走行の実証実験に取り掛かろうとしている段階である。ただ、追随するトラックにもドライバーが乗車する必要があるし、実現には越えなければならないハードルも多く、相当の年月がかかるものと思われる。
  鉄道貨物輸送へのモーダルシフトについては、現時点では既存施設を利用したJR貨物単独での取り組みに留まっている。鉄道専用線路の復活にいたっては、その動きもみられない。ドラックドライバー消滅の危機が迫る昨今、かつては間違いなく存在したこの圧倒的な鉄道貨物輸送力の復活に期待してしまうのは、ないものねだりというものなのであろうか。事態が深刻化する前に、取組みが始まることを祈るばかりである。

以上



(C)2016 Takeshi Yamada & Sakata Warehouse, Inc.

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